小学校の算数は回りクドすぎる

計算問題得意でも文章題には? これが小中学生の実態


といいつつまた読売からの記事引用だけども。

「0・6メートルの青いテープと、1・5メートルの赤いテープがあります。青いテープの長さは、赤いテープの長さの何倍でしょう」という問題の正答率は、小学5年で47・1%。計算式を作ることができたのも51・2%にすぎなかった。

のだそうだ。


これだけ聞くとさも意味の理解を二の次にしたテスト偏重教育であるかのように聞こえるかもしれないが、事実は全く逆で、小学校の算数においてはかなりの時間を数式の意味の理解に割いている。

ただちょっと、その意味の理解のさせ方がクドすぎるのである。例えばかけ算においては、「かける数」と「かけられる数」の違いをかなり重要視している。数学的には2×3=6も3×2=6も等価であるにも関わらず、場合によっては2×3=6のみが正解3、3×2=6と書くとバツを食らう時もある。しかし答えは同じ6なので、児童はここで混乱しがちなのである。

数学的に差異がない以上、言葉で概念を説明する他ない。しかし実はこれはかえって難しいことである。楽譜を自然言語で言い換えたらとんでもないことになるのと一緒で、数を表現するには数式が一番効率が良く、また理解し易い。それを自然言語に置き換えるのは、かえって難易度の高いことなのだ。

だから小学校の算数の文章題を見ていると、ときどき算数の問題なのか国語の問題なのか分からなくなることがある。しかもわざと式を立てにくくしているようなところがあって、これでは算数本来の理解の前に、文章の理解の方が先に立ってしまう。そういういらぬお世話的な蛇足は、実は同記事からも伺い知ることが出来るのである。

「6リットルは、何リットルの1・2倍か」という問題では、「6×1・2」「1・2×6」「6÷1・2」「1・2÷6」の四つの選択肢から回答を選ぶのにもかかわらず、正答の「6÷1・2」を選んだのは、小5で50・3%。中学生でも65・4%にとどまった。

確かにこの問題の中学生の正解率65・4%というのは低すぎるように思えるだろう。だがここにヒッカケがある。

大人であるあなたがこの問題を解く時、どういう手順を取るか考えて欲しい。ほとんどの人は即座に「6÷1.2」という数式が浮かぶだろう。そして一瞬で式と答えを書き、それで終わりだ。だがこの問題においては、四つの選択肢をひとつひとつを吟味するという作業がまだ残っている。作業行程が一つ増える分だけミスが起こり易い。だから、ただ単に「6リットルは、何リットルの1・2倍か」という問いであったなら、正解率はもっと上がったはずなのだ。余計な「四つの選択肢」がかえって正解率を低めてしまっているのである。

トラップはもう一つある。仮に選択肢を提示するのでも、「6÷1.2=5」「1.2÷6=0.2」と答えまで記されていたなら、正解率はもっと上がるはずだった。答えの数があまりにもかけ離れているので判別し易くなるからである。だが敢えてそうはせず、「6÷1.2」「1.2÷6」とわざわざ見間違いしやすいように式を二つ並べた。これは被試験者のケアレスミスを誘うことによって、児童の注意力を試そうとしているのだ。そしてそれは、算数本来の理解とは何の関係もない。強いて言うなら、得られるのはテストで高得点を取る心得のようなものでしかない。

そもそも実社会で演算する必要のある時に、いくつか選択肢の提示されることなど有り得ない。それでも選択肢を用意するのは、良くてヒッカケ、悪くて単に採点する側の都合だ。教育側がそんな事に終始すればするほど、子供達の理解は遅れていく。

特に小学校の算数では、意味を理解させようとするあまり手続き主義に似たような教科内容になっており、児童たちは答えそのものよりも、先生から教えられた通りの手順で問題を解くのに専念してしまっている。こちらが「こういう別の解き方もあるんだよ」と説明しても、それでは先生に注意されるかもしれないからダメだとなどと平気で言う。今の算数教育は、かえって子供の自由な解決能力を削いでしまっているのだ。なにかと学力向上が叫ばれやかましい昨今であるが、単にカリキュラムを増やしたりするより、こういう手続き主義的な教科内容を改めることの方が優先である。単に授業時間を増やせば学力も上がるなどと思ったら大間違いだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

体罰について

おそらく今では教師による体罰はリスキーな行為となるのだろうが、私(たち)が学生の頃はまだたくさんあった。

いい年になって我が身の若い頃を振り返れば、自身の受けた体罰に何かしらプラスの意味を見いだす人もいるのかもしれないが、少なくとも私に取っては何の意味も成さなかった。それというのも、教師による体罰というもののほとんどが教師の個人的な感情に基づく「キレた」上での行為であり、生徒にとって何の説得力も無かったからだ。

例えば今でも覚えているのは、昼休みを待たずして弁当を食べてしまう早弁、出席を取る時に欠席している人間の代わりに返事をしてあげる代返。そのどちらも私は当事者ではなく傍観者ではあったが、いきなりその生徒をはり倒した教師を見て、あっけにとられた。普段暴力を振るうような先生ではないのに、突然「キレた」からである。早弁も代返も悪い事には違いないが、初犯(?)なら口頭指導で何ら過不足のないこと。しかしその時の教師が「キれて」しまったのは、なんだかよくわからないが、とにかくその先生の「地雷」に相当するスイッチに触れてしまったということなのだろう。人は誰でもそんなスイッチを持っているものである。他の人から見れば「なんでそんなことに…」と思うような所で急に怒り出したりする。教師だって一人の人間なのだからそういうところがあって当然ではある。

ただそれは職務上の立場を利用した単なる暴力行為にしか過ぎず、何らかの教育的効果を狙った「体罰」とは、とても言えないのである。傍の生徒から見ていても、キレて殴っているというのは明白なので、みっともないことこの上ない。上記二つの例でいうと私自身は傍観者であったことは既に述べたが、そこから学んだことといえば、その二人の先生の個人的なスイッチを発見したことだけである。こんなご機嫌取りみたいな学習がその後の人生の糧になるわけがない。(まあ、社会人になって上司に取り入るには少しだけ役に立つかもしれないが。)

このように、私のような中年でさえ学生時代の体罰などろくなものではなかったのだから、いわんや今の学校でそのような行為を肯定する材料は一つもないであろう。

ただ、一人だけ例外の先生が、いるにはいた。かなりお年を召した、しかもかなり小柄な先生なのだが、すこぶる恐ろしく、授業中何回平手が飛んでくるか分からないような先生だった。些細な事でもすぐ平手が飛んで来るので、どんなに模範的に振る舞っていても、在学中にその先生の殴打を避けるのはほとんど不可能と思われた。まるで軍隊のような雰囲気である。どんな大人しい生徒でも名前を呼ばれれば体中の力を振り絞って返事をし、全速力でその先生に向かって走っていく。そうでなければ容赦のない殴打が飛んでくる。一回り以上小柄な先生が、やたら手足の伸び切った高校生数十人、時には数百人を一喝する様は壮観ですらあった。とにかくその先生の発する気合いに圧倒されてしまうのだ。その割に、職員室で雑務をこなしている時の先生は、どこか生気が抜けたようにも見え、ただの小柄なおじいちゃんとしか写らなかったりする。それがいざ生徒を前にすると豹変するのだった。この先生はいつも生徒に100%の全力を強要する代わり、自身もいつも100%、いやそれ以上の力を振り絞って生徒に相対していたのであろうと思う。

その先生が具体的にどんなことで怒り出すのかについては、あまりに多すぎて忘れてしまったが、ただ私たち全員がそこから学んだであろう事は一つはっきりしている。それは「つまらん小細工をするな」ということである。その先生は、とにかくしかられまいとするだけの生徒のあざとい行動を即座に見抜き、そんな時はいつもより執拗な罵声と平手打ちが続くのだった。とにかく子供というものは大人や教師に取り入って、波風を立てぬよう対策を立てるものである。私たちはこの先生の前で、それまでのそんな姑息なやり方をすべて暴露されてしまった。「何事も全力で当たり、それでも失敗したら素直に二、三発殴られれば良いのだ」 ー そんなあきらめた風でいて、しかしどこか潔い感覚が、確かに体の中に残っている。

これは体罰が教育の中でバランスを保っていた旧秩序の最後の名残である。何かと言うとはり倒され、しかしああこういうことなのかと妙に納得できる部分もあるものだから、うらみがましいことを言う生徒など一人もいなかった。他の厳しい先生に対しては、お礼参りしてやるだのなんだの息巻く生徒も、この先生に関しては何も言わない。この時の生徒の何人かは教師になったかもしれないが、現代においてこの世界観を生徒達に伝える事はまず不可能である。これからの子供達は、こうした旧秩序の弊害を知る事はあっても調和を知る事は永久に無い。それに変わる新秩序を打ち立てるにはまだ時間が必要だろうし、旧秩序をなぞらえるよりもよほど難しい作業になるはずである。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

歯磨き販促活動にご用心

子供が通っている小学校で、「シグナルキャッチ」なる商品による検査が行われた。これは直接歯の状態をチェックする歯科検診とは違い、唾液中の細菌量を量るものだ。あまりに細菌が多ければ当然虫歯になりやすい…らしい。

ちなみに我が家の子供の歯磨きは、親が最終チェックをいる行っている。その前日も隅々まで私がブラッシングしていたので、ほぼ問題は無かったはずである。もちろん私の歯磨き方法がベストだなどと思い上がってはいないが、少なくとも本人がやるよりは、他人が口の中を見ながらブラッシングした方が磨き残しは無いはずだ。

にもかかわらず、検査結果は三段評価中最下位だった。普通ならここで「もっと歯磨きをきちんとしなければ…と反省すべきところなのかもしれないが、私にはどうしても腑に落ちないところがあった。

まずこれ以上の歯磨きは歯をすり減らす結果になりはしないかということだ。歯科医によって意見が分かれるようだが、必ずやるなら朝と晩の二回で十分という医師もいる。共通しているのは、磨き過ぎに対する警鐘である。磨かないのは論外だとしても、磨き過ぎも良くないということで歯科医の意見は一致している。

もっとも、「磨かないのは論外」だと言い切ってしまったが、これもいっぺん疑ってみた方がいい常識かもしれない。これだけ歯磨きしていても虫歯になるのなら、歯磨きが無い時代の人間はいったいどうなっていたのだろう?これについては興味深い記述がある。

歯磨きの歴史的背景を考え、先祖の歯磨きを考えてみる。
温故知新
http://www.honda.or.jp/okuchi-kenkou/html/okuchi13.html

昔なりの歯磨き法は縄文時代からあったけれども、それは爪楊枝であって、現代風のバカ丁寧なブラッシングなどはしていなかった。それでも50歳程度まで生きていて、ほとんどの歯が残っているというのは一体どういう事か。

これだけで驚くのはまだ早い。知人の看護師はもっとずっとラディカルな意見を持っている。いわく、虫歯は幼児期に原因となる菌を親から直接感染させられることで起こる。例えば親の使った箸で子供に食べさせたりという行為だ。このような感染源を幼児期に徹底して排除できるなら、その子は一生歯磨きする必要はない。(!) そして彼女は子供が大きくなった今でも歯磨きをさせず、実際それで虫歯が無いそうなのである。

専門家でない私にはもう何を信じたら良いのかよくわからない世界なのだが、最初に戻ってもう一度「シグナルキャッチ」のことを考えてみよう。この検査で妙なのは、具体的にどんな菌を測定し、その菌はどういうプロセスによって虫歯を引き起こすのか、また、検査結果が悪かった子供には今後どういう指導をしていったら良いのか、その辺りの説明が保護者向け資料に一切記述が無かった事である。一方の子供に対しても特に具体的な指導はなかった。「もっとよく歯を磨きなさい」とすら言われていないという。

この結果を知らされた親はどう思うだろう。きっと私のように、「もっと歯磨きを徹底させなくては」と思うに違いない。

その週末、たまたま上野動物園に行った。ゲートの近くには歯磨き製品で有名な「ライオンちゃん」の着ぐるみが二人出迎えており、子供達に大人気である。そのまま園内に進むと、動物のお面をかぶった若い女の子達が子供達を集め、レクチャーやら紙芝居やらを行っている。これだけの数のアルバイトを揃える資金はどこから出て来るのだろう?そして、たまたま学校で「シグナルキャッチ」が行われたその週末のこの販促活動は、果たして偶然といえるのだろうか?

私はことさら陰謀論めいた話を声高に叫ぶつもりは無い。あとは各自が自分で判断すれば良い事だ。参考までに、素人なりの私が考えた対策を記しておく。我が家ではせっけん歯磨き剤を使用しているが、それとてこれまで以上に消費量が増える事は無いであろう事、殺菌作用のあるうがい薬等は使用しないこと。歯磨きは寝る直前と起きた直後の一日二回、水分をたくさんとること、そして食後に比較的安全と思われるガムを義務づけた事だ。言うまでもなく、この義務は子供にたいそう歓迎された。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

若い人、もっと若い人

レンタルビデオショップを経営する知人から面白い話を聞いた。彼が接するバイトや客のうち、今の若い人たちはパソコンができないというのだ。まずネットで検索するという発想があまりないらしい。彼は、これはひょっとして携帯のせいかもしれないと言っていた。

確かに携帯電話ならば、「公式サイト」等と称して、それのディレクトリを掘っていけばたいていの情報は見つかる。アプリも着メロもガイダンスに従って選んでくるだけである。よく言えば管理の行き届いた、悪く言えばお仕着せの情報ナビゲーションに慣れきっているのであろう。

この世代、具体的には20からその前半ぐらいの年代は、i-modeや写メールといった、携帯文化花盛りの時期を過ごしてきたが故に、携帯への依存率が相当高いのではと思うのだが、どうだろう。これは私自身の社会人経験の時期とも一致している所があり、社会に出て携帯を持たないなんてとんでもないというような風潮や、持っている機種によって恥ずかしいとか恥ずかしくないとか、いい年した大人達が真顔で言い合っていたものである。

今やそのような時期も過ぎ去りつつある。NTTさえも「公式サイト」への囲い込みから脱却し、携帯から一般サイトへのアクセス方法を模索する時代となっている。きっと私たちの子供は、携帯に対してもっとニュートラルな観点を持てるようになるに違いない。私たちオジサン世代は、「子供に携帯なんぞとんでもない」と顔をしかめるし、今の20代前半なら「子供に携帯を持たせないなんてとんでもない」と言うかもしれない。そのどちらも時代遅れの発想になる時期が、今到来しつつあるように思う。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

ネットと子供

ある日、子供がしょんぼりして帰ってきた。

話を聞くと、保育施設にあるパソコンで、見てはいけないものを見てしまったらしい。この時、子供達の間でネット上のフラッシュを見るのが流行っていて、NOVAウサギやドラえもんのフラッシュを見ていくうちに、知らずにグロ系のフラッシュを踏んでしまったらしいのだ。知っている人は知っていると思うが、こういうのは大人が見ても思わず目を背けたくなるようなショッキングな画像ばかりだ。それが今やNOVAウサギやドラえもんと同列に並んでいるのだから恐ろしい。

ちなみに我が家では、子供に対してはネットで検索する事を禁止している。まだ10歳にも満たないということもあり、今は親の与えたブックマークしか閲覧させていない。でないと、上記のように、どんな害のある画像や情報が突然出てくるか分からないからだ。ところが驚いた事に、小学校では既にネットで検索する方法を教えているという。早くも三年生の授業でだ。

確かにネットで検索するという行為はむしろ推奨されるべき事で、海のものとも山のものとの分からない情報の海の中から、主体的に情報を選び取る事は、これからの現代人にとって必須教養となるだろう。ただしそれも善し悪しで、いくら自由とは言え子供が見てはいけないものがゴロゴロしている現実の中で、野放しにネットを使わせるわけにはいくまい。最低でもフィルタリングソフトの導入は必須だと思う。

ところがこれが、なされていない。それどころか、その授業に対して、先生もお母さんがたも何の危機感も感じていないようだった。きっと彼女らは、いかに酷いものが転がっているか、ご覧になった事がないのだろう。全ての人がそれほどディープな情報に辿り着いているわけではないのだ。しかし、子供の能力を軽視してはいけない。私の子供はもちろん十分な知識があるわけではないが、例えばフラッシュに埋め込まれた隠しボタンなどは私よりずっと上手く見つける。彼らがひとたび検索の技術を身につければ、一般的なお母さん方のあずかり知らぬ深い暗い領域まで、あっという間に辿り着くであろう。

少し話は逸れるが、お父さん方が教育に参加していないのも、この無防備さの一因になっているのではないだろうか。平均的にはお母さん方よりはお父さん方の方がネットに詳しいと思われる。できるだけ学校教育の場に参加し、まだよちよち歩きの段階にあるネット教育を、適切に指導強化していく事が緊急に求められているように思えてならない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)