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飲酒運転者への制裁が市民の安全よりも優先されてはならない

連日の飲酒運転・ひき逃げ事件の報道が、実際にそういった事件の増加を反映しているのか、それとも何か別の意志が働いているのか分からないが、とにかくフツーに暮らしている善良な市民をビビらすには十分すぎる効果がある。

例えば飲酒取締りから強引に逃走、そして警察が追跡、その末に無関係な市民が事故に巻き込まれたとする。さてあなたならどの立場に一番シンパシーを感じるか? 公務員系のお仕事なら追跡した側の警察官かもしれないし、飲酒運転をたびたびする/していた人なら犯人の側に何かを感じるかもしれない。だがそのどちらにも属さない私などは、巻き込まれた市民の側に一番シンパシーを感じてしまうのである。

身勝手なようだが、一介の小市民たる私にとって最も大切なのは自分自身の安全である。もちろん最も恨むべきは犯人だ。しかし彼の逃走のせいで寝たきりになってしまったとしても、もしあの時警察がそこまで執拗に追跡しなかったら、もしここまで飲酒運転が厳罰化されなかったら…と思ってしまってしまったところで、誰に責めることができようか? いや、最も憎むべきは飲酒運転であり、だからその社会正義の為に私が犠牲になっても仕方がなかったのだなどとは、とても納得できるものではない。

結局、脅威なのは事故そのものである。事故を減らす為にこそ、飲酒運転の厳罰化と取締りがあるのであって、その取締りの為に無関係な市民が病院送りにされたのでは本末転倒もいいところだ。飲酒運転手をギャフンと言わせてやりたい気持ちは分かるが、一旦それはリセットしてみよう。彼に対する鉄槌が一介の市民の安全よりも優先されることはないはずだ。

もちろん彼がうまく逃げ切った結果、どこかまた別のところで事故を起こす可能性はある。だがそういう「たられば」的可能性の為に、今ここで私やあなたが犠牲になる必要はないし、またそんな犠牲はいかなる正当化も出来ない。

実際のところ、罰則については今のままでもう十分だ。映画やドラマでは、「一人殺そうが二人殺そうが同じだ!」などというセリフがよく出てくるが、今の罰則はもうそこまでいっていると思う。これ以上厳罰化したところで犯人の心理的負担は変わらないと思うので、特に賛成も反対もする理由はない。世論が…というならその世論とやらの気のすむところまで厳罰化すれば良い。

しかしそれに応じて、警察の追跡時の安全確保がより厳しく問われるべきなのは強く強調しておきたい。もし追跡の為に私もしくは私の家族が犠牲にあったら、私は断固として警察も訴える。ただ単にヨッパライを追いかければ、その辺で信号無視しまくって誰かをひいてしまうのは、火を見るより明らかだ。そんなことをして「追跡は適切であった」などと言われても絶対に許すことはできない。

同時に、さらに増加を続けるであろうひき逃げ対策も十分問われるべきだ。あまり大きい声では言いたくないことだが、ひき逃げの検挙率は40%程度しかないという。特に飲酒が絡んでる場合は自首してさえ厳罰なのだから、ならば2人に1人以上は逃げ切れる可能性にかけたくなったとしても無理はあるまい。

その為に具体的にどういう措置をとればいいのかは私にはわからないし、第一それこそ警察の真の仕事であろう。ただ一つ確かなのは、厳罰化とこれらへの対策は両輪の輪であることだ。厳罰化を望む国民の側も、それは強く認識して欲しい。ただ単に厳罰化しました、取締りも増やしましたでは、この先犠牲者が減ることはないどころか、新たな種類の危険を産み出しているとさえ言えよう。

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スライドプロジェクターのスクリーン選び - 生地と機構

さて、ここまで注意深く大きさを選定した上で、やっと生地の話ができる。スクリーンというと世の中生地の話ばかりだが、私の経験ではそんなのより大きさの差の方が激しかった。それはともかく、生地について一つだけ言いたいのは、設計の古いビーズは徹底的に避けた方が良いと言うことだ。画面が妙にギラつき、そのギラつきの粒子が粗いので、解像度が低くなった印象を与えてしまう。これは本当にダメだ。

ただウルトラビーズのような設計の新しいビーズならOKだ。変なギラつきもなく粒子の粗さも無く、明るさとコントラストが一気に上がったかのような鮮明な画像が得られる。パールも同様だ。パールとウルトラビーズどちらがいいかというと、もう本当に好みの世界で、ショールームで目を凝らしてみても、どちらの方がいいかは判断がつかなかった。(オーエスのショールームにて自前プロジェクターを持ち込み映写)

それに比べると明らかにホワイト/グレー系は地味である。特にウルトラビーズ/パールを見た後でホワイト系を見ると、かなりショボく見える。ところがホームシアターの世界ではこのホワイト系の評価が高いらしい。あちらの世界の場合、スライドに比べて光が強力なので、スクリーンで明るさを稼ぐ必要が無く、それよりはホワイトの素直な特性を取った方がマッチするのだろう。それと、あちらは鑑賞時間が長いからスクリーンがぎらぎらだと目が疲れてしまうというのもあるかもしれない。

スライドの場合は鑑賞時間が短く、出力もたいして高くないから、ウルトラビーズやパールで鮮やかさを取るというのは十分アリだ。このあたり、ホームシアター関連の記事を鵜呑みにしない方が良い。ただしホワイト系もじーっと見てると確かに深みが感じられるのも事実で、ショールームでとっかえひっかえ見比べた印象だけで選ぶと良くないかもしれない。フィルムだってベルビアとEPNを並べたらどうしても鮮やかなベルビアの方に目が奪われてしまうわけで、でも長く使っているうちにEPNの良さが分かってきたりする。スクリーンというのもそのように長く付き合わないと分からないものかもしれない。

ちなみにphoto.netのスライドプロジェクターの記述では、ホワイト系の評価が高いようである。元記事では「ホワイト以外の生地はMBAのプレゼン用」と断じ、コメンテーター達もだいたいその意見に同調している。私はそこまでは思わない。とにかく旧式のビーズさえ避ければ、他の素材も十分選択肢に入れて良いと思う。

さて最後に機構である。電動だのなんだのそういうのは好みで選べばいいとして、画質に決定的な影響をもたらすのは平面性である。例えばパールかホワイトかなどというのは単なる好みに過ぎないが、画面の平面性については議論の余地無く上下関係が決まっている。一枚板の張り込み式がベスト、次に何らかのフレームを持つ巻き取り式、最後にフレームを持たない巻き取り式である。一枚板の張り込み式は非常に場所を食うし、それに常設なので汚れも気になる。だがその分画像の安定感は素晴らしく、いかにも「幻灯機」と呼びたくなるような画像のはかなさが完全に姿を消し、まるでフラットパネルディスプレイで写しているかのような強固な安定感が得られる。結局ピントに関してはスライド自体が熱でポップアップしてしまうので、スクリーンを平面に保ったところですべてにピントが合うわけではない。しかし平面なスクリーンによる画像の安定感はそれとは別次元の話だ。これは本当にお薦めである。

最後に、正方形スクリーンは国内では唯一オーエスがカタログにラインナップしている。例えば1.8mという大きさでも掛図式スクリーンをナニワ電機等の通販で買うと相当安く入手できる。ただしほとんどのスクリーンメーカーはサイズをオーダーできるので、多少割高になっても自分の好みの正方形スクリーンを手に入れることは可能だ。

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スライドプロジェクターのスクリーン選び - まずは大きさ!

写真の投影スクリーンとなると、まずは当たり前ではあるが正方形のものを選ぶこと。写真は横長だけでなく縦長の映像もあるので、正方形でなければダメだ。横長のスクリーンだと相当オツリが来て見映えがよろしくない。

次に大事なのはスクリーンの大きさである。出来うる限り大きなスクリーンを買おう。私は現在1.8m辺のスクリーンを使っている。これは実は狭い我が家には明らかに大きすぎて、これを広げると部屋のドアが開かなくなってしまう。だから映写中はなんと部屋の出入り禁止である。さらに中央に鎮座するテーブルが大きな投影光を遮る為、それも移動させなければならない。しかしこうした不便を我慢してでも大画面を手に入れる価値はあったのだ。

というのは1.5m辺のスクリーンと実際に比較しての話である。1.5mだとドアも普通に開くことから、当初使っていたのだが、1.8m辺のそれと比べると迫力不足は明らかだった。たかが30cmの差がここまでキクのかと驚いたものである。

ただちょっと注意して欲しいのは、「大画面」というのはどうやら部屋の大きさとの比率で決まるらしいことだ。あなたの部屋が非常に広い場合、1.8m辺でも迫力不足に感じる可能性がある。実際に広いショールームに行って体験したことだが、ああいう広い部屋で鑑賞すると2m辺でもたかが知れている。

もう一つ面白いことを発見した。1.5mから30cm足して迫力が出たのだから、逆に30cm引いて1.2mにするとどうかというと、実はたいして変わらないのだ。それどころか、明るさが強まってむしろ画質がいいとさえ感じる。つまり私の部屋では1.8m付近が迫力を感じるデッドラインで、1.5m以下ならそれ以上小さくてもたいして変わらないということだ。これも部屋の大きさによって決まることであり、余程小さい部屋であれば1.5m辺がデッドラインになることもあり得る。

言い換えれば、中途半端な大きさにするならもっと小さくても構わないということになる。だからアカデミカのブック型スクリーンにもちゃんと意味があるのだ。あれを2倍3倍に引き延ばしたところでたいして結果は変わらない。ならばよりお手軽なサイズにした方がいいし、また、あそこまで小さいと強烈に明るくなり、部屋を真っ暗にせずとも鑑賞できるという実用上のメリットも出て来るのだ。スクリーンはめいっぱい大きいかめいっぱい小さいのに限る、というのが私の結論だ。

ちなみにここでもアカデミカのスクリーンは良くできていて、通常のホワイトマットよりも少しゲインが低くて生地の目が細かい。ゲインが低い(暗い)のは画面が小さいぶん強力に明るいので問題無く、生地の目が細かいのは近距離で鑑賞したときの解像感対策であろう。何かアカデミカばかり褒めているようだが、実際良くできているのだ。

一方、大きなスクリーンは現実的には天井高によって頭打ちを迎えるだろう。スライド用のスクリーンは正方形でなければならないので、最大天地幅がそのまま最大横幅になる。私の部屋の天井はマンションの鉄骨によって一部張り出しているので、取り付け部を含めると1.8mが限界だ。どうやってもこれ以上は大きくならない。そんな風にして部屋の高さめいっぱい使う感じで選べば失敗は無いし、万一失敗したとしてももうそれ以上はどうしようもないのだから、あきらめもつくというものだ。

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和田アキ子のソウルを熱望する

どうして今だにソウルやブルースの世界にどっぷり入っていないのか不思議なのが和田アキ子。m-floとのコラボでやっと私の聞きたい和田アキ子が聞けたと思ったが、それでも今ひとつ歌につやが感じられなかったのは、本人の吹っ切れない思いが声に出ていたのだろうかとも思う。

自身の変化と従来のファンとの狭間で苦しむのは、アーティストにはよくあることである。U2は「もう僕たちには何も期待しないで欲しい」と言い放ってその後も変化を続け、結果的に長年トップアーティストの地位を維持し続けている。

それとは別にもう一つ、和田自身の変な思い込みというか刷り込みというか、そういう音楽はイコール「不良」みたいな捉え方があって、自身の苦しかった青春時代とリンクしてしまっている部分があるようにも見える。自分の過去の再解釈によって自身を開放しなければならないのは、和田に限らず年を重ねる過程で誰もが乗り越えなければならないことである。

一方でそういった個人的な思いとは別に、ある種の才能は人類の財産とも言えるわけで、例えば交響曲を書かないベートーベン、鍵盤音楽を書かないバッハというようなものは、人類にとって大きな損失である。黒人ルーツ的な音楽を歌わない和田というのもまたそのような損失になってしまうことだろう。

番組の中ではレイ・チャールズやビリー・ホリデイが出てきたが、私自身のイメージで和田と重なるのはウィルソン・ピケットだ。西アフリカでのライブで彼が「Land of 1000 Dances」を歌っていた映像を見てブっとんでしまったのだが、その瞬間すぐに和田アキ子の声を連想した。できれば私はジャパナイズされた湿ったソウルではなく、カラッカラに渇いた灼熱のようなソウルを歌って欲しいと思う。そもそもブルースというものも、とんでもなく悲しいことをカラっと歌う音楽ではなかったかと思うから。

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